俺たちの超人墓場(墓って誰のためにあるの?)
こんにちは。or こんばんは。
ロックミー代表の小林宗織です。
幼いころから死んだら超人墓場に行くんだと信じて疑わなかった私が、ふとしたことからお墓について真面目に考えてみました。
この写真はうちのご先祖の墓にある墓誌です。
延宝(今から330年くらい前)から記録があります。
他のお墓をみて回っても、一般墓地にあるお墓の墓誌は江戸時代より古いものがほとんどないなーと気が付きました。
なんでもっと古いお墓がないんだろう?
と気になって調べてみました。
すると、ちょっと面白いことがわかりました。
どうやら教科書でおなじみのザビエルさんが現在の山口県で(1550年ごろから)キリスト教の布教を初めたあと、戦国末期から江戸初期にかけてキリスト教の布教スピードが勢いをつけたようです。
それをみた大名たちは
「キリスト教信者増えるの早いな・・・このままではキリスト教に日本をコントロールされる」
と恐れ、キリスト教を排除していく力を強めます。
その後日本を統一した徳川幕府が手を打ちました。
「日本人はみんな必ずお寺に属してお墓をたてましょう。仏教徒になるんです。お寺は日本人のお墓をかならず面倒見てください。そしてお寺は日本人の全員を台帳を作り、誰が生まれて誰が死んだかを管理しましょう。」
みたいなことをいきなりやってのけます。
幕府はお墓と寺と日本人を結びつけました。
日本人をみんな正式に仏教徒にしてしまうことでキリスト教を排除すると同時に、国民の台帳をお寺に作らせようとしたわけですね。
お寺は苦労して布教しなくてもみんなが檀家になってくれるわけですから、安定した収入が入るわけです。
お寺も断る理由がありません。
そんな背景もあって、海外からみると日本は人口の99%が広義での仏教徒なのだそうです。
これ地味にすごい政策ですよね。
今の時代に安倍総理が同じことを言い出したら大騒動ですね。
でも結果、それから何百年もの平和を維持する幕府にとって良い政策だったのでしょう。
それよりずっと前に織田信長が比叡山を焼打ちしたのは有名です。
高僧たちの腐敗など、信長なりにその理由はあったのでしょうが、結果多くの敵を生むことになりました。
家康はそれを反面教師にしたかの如く、むしろ仏教を政治にうまく取り込んでしまうことで、キリスト教を抑え込むという大きな目的も同時に達成してしまいます。
彼には天海などの優秀なブレーンがいたので、それも不思議なことではありません。
本当にタヌキです。見習いたい。(笑)
一般的な日本人の私は
お墓 = お寺
のイメージで生きてきました。
お寺にはおどろおどろしい墓地が必ずあり、そこでは鬼太郎たちが夜な夜な運動会をしていると。
でもこれがたった数百年前に、徳川の世に、政治的に作られたものだったことを知ったわけです。
お釈迦様が仏教をつくった時に、セットでお墓の話も盛り込まれていたと思っていた私は正直驚いたんです。
思えば海外のお寺に必ずお墓がついていたわけではない。。。
余程偉い人なら別ですが、お寺が一般人のお墓を管理しだすまでは、村やコミュニティで管理してる埋葬地に葬られたそうです。
仏教を最初にはじめたシッダルタさん(お釈迦様)は
「この世をいかに苦しまずに生きるか」
というライフハック的なことを教えていただけで、「あの世」については一言も触れてないといいます。
魂があるとも言ってない。
生まれ変わる(輪廻転生)とも言ってない。
先祖を供養しましょうとか崇拝しましょうとも言っていません。
仏像(偶像)なんて作らんでいいと言ってた。
今のインド北部でお釈迦様が亡くなってから1000年かそこらの時を経て、中国や韓国を経由してやっと日本に仏教は伝来してきますが、たくさんの国でたくさんの新しい要素を吸収して、原始的な仏教の教えはかなり形を変えてしまったいたのでしょうね。
家康だけではなく、その時々の権力者たちが宗教を政治に利用する場面も多かったのでしょう。
そういう背景で、日本に伝わった仏教は今や20近い大きな流派に分かれ、さらに形を変えて現代にいたるわけです。
ですから、私たちが見て育った現代仏教は日本独自の進化を遂げたものなんです。
だいたいの現代仏教は
「お墓を建てましょう。ご先祖を祀りましょう。儀式をもっと頻繁にやりましょう。」
って言います。
でも仏教を生んだ人はそんなこと言ってないっていう・・・。
大人の事情、複雑すぎますね。
この前「死後離婚」っていう言葉をニュースでみて、不思議な感覚になりました。
好きでもないのに嫌々我慢して長年夫婦関係でいたけど、死後は別のお墓に入りたいっていう人が増えているんだそうです。
自分はここに少し違和感を感じてしまいます。
個人的に、死後の世界が本当にあるという可能性は限りなくゼロに近いと思っています。
でももし、死後の世界があるとするなら、そこに「苦しみ」があってほしくないと思っています。
誰かを嫌ったり、妬んだり、羨んだり、恨んだりすることはとてもつらく、苦しいことだと思います。
生きている間、人はそれをたくさん経験し、十分に苦しみます。
だから、もし死後の世界があるとするなら、そんな苦しみを引きずって行くのは嫌だなぁと。
それこそ本当に、死んでもなお苦しい超人墓場になってしまう。
いろいろお墓について考えて、こんな結論に達しました。
お墓をお寺が管理しようが、誰が管理しようが、お墓が墓地にあろうが、ネット上にあろうが、お墓は死んだ人のためにあるんじゃなく、生きている人のためにあるんだなということです。
生きている人間は、自我と闘い続けねばらならいから。
この本質はずっと変わらんのだろうと思います。
私自身は死後、お墓に入っても、入らなくてもどっちでも構いません。
でもお墓に入ることで、生きている一族や子孫がほんのちょっとでも苦しみから解放されるのなら、現代の仏教もそんなに悪いものではないのだろうなと思うのです。
そしてできうることなら、1コンテンツ屋として、少しでも多くの人が
「この人と一緒のお墓に入れてよかった」
と思えるような世の中に近づくように、生きているうちに自分の力を使っていけたらなと思うのでした。
小林宗織
関連記事
- 2016.09.26
- 2012.12.17
- 2012.07.01