『薬が届かないところに。』
こんにちは。Rock Me!の小林です。
今日は自分の心に残っている、エピソードをお話します。
それは2004年ごろ、私がまだITディレクター修業の真っ最中のときのことです。
私は当時ベルシステム24という(コールセンター事業で有名な)大きな会社に在籍していて、「新宿の母」というガラケー&パソコン向けの占いコンテンツを企画して立ち上げました。
幸いそのコンテンツは立ち上げた後を受け継いでくださった敏腕プロデューサ、田中昌明さんを中心としたチームの尽力もあり、有料会員数10万人超を長年にわたって維持するヒットコンテンツとなり、その部署を支えるドル箱コンテンツとなりました。
「新宿の母」は上長の助けを一切借りずに私がゼロから企画を起こしてディレクションしていった最初のコンテンツでした。ですからディレクターとしてたくさんの壁にぶつかり、それを乗り越えるためにたくさんのブレイク・スルーを必要としたので、今でも学ぶことが一番多かったプロジェクトだと思っています。それについては今後また別の形で書いていくとして…。
これはその「新宿の母」とのあるエピソードです。
その前に、みなさんは「新宿の母」ってご存知でしょうか?
聞いたことはあるよっていう方も多いと思います。
私も出会った時はその程度の知識でした。
新宿の母は、東京の新宿にある有名老舗デパート伊勢丹の前で、常に行列を作っている人気占い師です。
※現在はお歳のため、息子さんである2代目が引き継いでいます。
本名は「栗原すみ子」さんといいます。
とにかくすごい方です。何がすごいかというと、別に「運命をあてる」占い師だからすごいのではありません。
「人として」尊敬に値し、すごい方なのです。
母は、占い師としてポピュラーなデパートの一角にブースを構えるようなやり方ではなく、伊勢丹の前に「立って」鑑定するというスタイルの「路上占い師」です。
母に初めて会った10年前にすでに70歳を超えていらっしゃいましたが、正月の三が日以外は毎日朝の電車の始発の時間ごろから、夜かなり遅くまで路上に立っていました。
先ほどから「立って」という言葉を使っていますが、ここが私が新宿の母に驚き、惚れこんだ最初のきっかけです。
新宿の母は本当に朝から晩まで、一度も座ることなく立ったままなのです。
通常、路上で見かける占い師さんというのは、小さなテーブルを作って座って、大きなムシメガネを持って客待ちをしているイメージですよね。
私が企画マンとして彼女に目を付けてから、よく伊勢丹の前に行っては彼女の鑑定模様をウォッチしていました。
真夏の灼熱のなかでも、真冬に雪のなかでも、彼女はとにかく伊勢丹前に「立って」いました。早朝から時には夜遅くまで。そして、トイレ休憩にすら滅多に行きません。そして行列を裁くために1人あたり5分~10分で素早く鑑定をしていくため、ピークでは1日に200人の女性の悩みを聞いてあげ、それにアドバイスをしていました。
「よくこんな働き方をして倒れないな……」
というのが私が当初抱いていた正直な感想です。そして彼女をここまで駆り立てているのはいったいなんなんだろう?と当時私は新宿の母に強く興味を持つようになりました。
すごく簡単に母の背景を説明すると、彼女は出身地の茨城で若いころに一度結婚して子供を産むのですが、家庭内の様々な問題で夫が失踪してしまいました。
今でいうシングルマザーとなった彼女は、泣く泣く子供を実家に預け、養育費を稼ぐために戦後の東京へ出ていきました。しかし、いろいろとうまくいかずに自暴自棄になっていたところ、街の占い師に声をかけられ、それをきっかけに占い師に弟子入りをします。
修業の末に独立した彼女が鑑定の場所を定めたのが「新宿」でした。当時の新宿は今の洗練されたビル群のイメージとはまったく違って、実は売春が合法で認められた「赤線・青線」があるエリア(ドヤ街)でした。当然そこには、事情があって売春で生計を立てている女性がたくさんおり、人に言えない悩みをたくさん抱えて生きていました。
最初に母のお客になったのは、たくさんの悩みを抱えた売春婦たちでした。
新宿の母が女性の間で人気になったのは、彼女の鑑定スタイルにあります。
通常、占い師は過去や将来の出来事などを「当てる」ことにフォーカスするので、「あなたはいついつごろに結婚するだろう」というふうに口調もどこか達観したように、高みからモノを言うようになってしまいがちです。
しかし新宿の母は、あたかも自分のお母さんが目の前で話を聞いてくれるように、相談者と同じ目線で話を聞いてくれます。新宿の母自身が女性として、母親として、とても苦労をしたことがあるため、悩んでいる女性をみると放っておけないわけです。
そんな鑑定スタイルはクチコミでどんどん話題となり、時には家出少女まで彼女を訪ねてくるようになりました。
以来ずっと、時代が変わって社会が物質的に豊かになったも、社会的に弱い立場にある女性、人に言えない悩みを抱えた女性のよき相談相手として新宿に立ち続け、行列を作っていました。
※そんな背景から、昔はずっと男性は鑑定NGでした。
そんな彼女をみた広告代理店の方が、「遠くの母より新宿の母」というキャッチフレーズを考え出したことが、彼女が「新宿の母」と呼ばれるようになっていったきっかけです。
母とお仕事をご一緒し、仲良くなってから、実際にご本人に聞いたことがあります。
「なんでいつも立ったままやるんですか?」と。
「だって、真剣に悩んでいる人の話を聞くのに、私が座ってたら失礼じゃない」
そうです。相談者と実際に目線を合わせているのです。
言うのは簡単ですが、早朝から深夜まで立ち続けるというのは、並みの精神性ではできない業だと思いませんか?ここまで自分に厳しく他人にやさしい人は他に見たことがない…。
「新宿の母」というのは、本当にそういう人です。
さて、母がすごい人だという話はこんなところにして、その母とお食事をしたときに、聞いた面白いエピソードがあります。
当時母は軽い糖尿を持っていたので、医者通いをしていました。
母が病院のロビーで順番を待っていると、たくさんの女性が同じく順番待ちをしていました。
しばらくその医者に通っていると、いつも同じ面子がロビーで順番待ちをしていることに気が付きました。
しかもなぜかそのほとんどは女性で、とにかく朝早くからロビーで一生懸命化粧を直していて、服もめかし込んでいる…。
母は気が付きました。
「ああ、この人たち、医者の先生が若くてカッコイイイから、会って話をしたくて通っているのね」と。
そこで母は自分の順番が来た時に、イケメン先生にちょっと嫌味を言いました。
「先生、ロビーで待ってる人たち、お化粧ばっかりしてて先生と話したいだけでしょ?でもこちらは急いでいるのに待たされて、ちょっと迷惑よね」と。
するとその若いイケメン先生は、こんなことを言ったそうです。
「毎朝お化粧することで外に出る元気が出るなら、薬に較べて安いものです。お薬は病気を治せても、生きがいは作れません。」と。
母は、イケメン先生が若いのに達観していることに驚いていました。
でも、私はその話を聞いて、母に言いました。
「一日200人に生きがいをみつけて、笑顔にしちゃう新宿の母も、タダモノじゃないですよ」と。
コンテンツを企画していた当時、よくストーカーのように新宿の母が立つ伊勢丹で彼女の鑑定模様を見守っていましたが、彼女のところを訪れた人のほとんどは、鑑定前にちょっと暗い顔をしていても、帰るときにはイキイキとした笑顔になっている。
私はそれが母の本当のすごさだと思ったのです。
Rock Me!という会社はエンターテインメントやファンタジーの力で人を元気づけたり、悩む人の背中を押してあげたいという思いを込めて、設立しました。
そして「占い」というコンテンツジャンルを大切に考えて今も取り組んでいるのは、ただ単に「あてる(未来を予測する)」ことにフォーカスするだけじゃなく、悩める人の背中を押してあげて、生きがいを見つけるお手伝いができるからです。
私はこれをよく「薬の届かないところに届く」という言い方をします。
マンガや映画をみて感動して元気をもらるのも、届いているということですね。
新宿の母との日々は、そういうことを私に発見させてくれました。
Rock Me!代表 小林宗織
※2014年7月30日の記事を再掲載しています。
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